母ちゃんごはん
昨日の記事を投稿後、ボルシチの写真を貼り忘れたことに気付いていた。
ロシアごはんの代表格であるボルシチ。ビーフストロガノフを食べたレストランでオーダーしたもの。
今日はロシアシリーズ第二弾にしてもいいかなと思いつつ、まずは忘れず写真をペタッ。
これでスッキリしたためロシアシリーズは終了。
昨日私はロシア料理がシンプルで好きだと書いた。しかしよくよく考えると、
こんなご馳走をシンプルだなどと偉そうに言える自分に違和感を感じたのだ。
シンプルという表現さえもおこがましい、究極の単細胞料理を忘れてはいけない。
それこそが我が母ちゃんのスーパー豪快超特急レシピ。
残念ながら写真というものは残っておらず、お恥ずかしいのだが幼稚園児レベルの画才を頼りに再現してみた。
この衝撃レシピは学校が午前中で終わる土曜日に多かった。フライパンは母が嫁いだ時に祖母が買ってくれたという年代もの(母は亡くなるまでずっとこれを使っていた)。南部鉄ではないと思うが、年季が入りすぎて周囲は凸凹の南部鉄風になっていた。食べる人の頭数ぶんカレースプーンが突っ込んであり、なぜかびん牛乳が必ず付いていた。鍋敷は籐素材かなにかでレース編みみたいに編んであるもの。驚くことに今でも昭和レトロなオシャレを楽しむ商品として売っているみたいだ。
小学生の頃からうちでは当たり前のメニューだったが、成長するにつれてよそのお宅ではないものなのだということを静かに認識するようになる。味付けは本当に冗談みたいに醤油だけ。ただし、近所に醤油屋さんがあって、一升瓶に入った昔ながらの無添加濃厚濃口醤油を使っていたので不思議と美味しかった。キャベツも多分手でちぎっただろう…母ちゃん…。このコントラストが今でも頭に焼き付いている。ちょっと焦がし気味のしょうゆご飯。わざとじゃなく普通にうっかりして焦げただけかもしれないけど。作った本人は全然気にしな〜い。「ハイお待ちどぉ〜さま」と、ニコニコしながら出されると、そんな深いことを考える気力を失う。それにぜんぜん待ってねーよ母ちゃん。。。
こんな母ちゃんでも一時期保育園の給食室でパートをしていたから、料理が嫌いなわけではなかった。なんというか…給食で使うのはさらに巨大な鍋とかだから気性に合っていたのだろうと思う。
母の実家は戦後祖母が縫製工場を立ち上げ、当時「縫い子さん」と呼ばれた女性をどんどん採用していた。住み込みで洋裁の技術を習いながら働いてもらっていたそうだ。そのため、男兄弟しかいない母にとっては常にたくさんのお姉さんがいたから嬉しかったという。大所帯の食事はきっと豪快だったのだろう。きっとでかい鍋やフライパンを使っていただろう。中華料理風のアットホームな食卓だったようだ。
祖母は今の時代ならきっと女性経営者としてバリバリいろんな事業をやっていたかもしれない。工場を切り盛りしつつ更に助産師の資格を取ろうと勉強していたという。残念ながら過労がたたってか持病の喘息大発作で呆気なく42歳で亡くなってしまった。私が生まれる前に。私のアレルギー体質はそっち系からもらったものだ。
まるでイルカの群れのように母系家系だった。祖父は婿養子で工場の裏方というかアイロン職人だった。大人しい穏やかな卯年のじいちゃんだった。頭も顔も小さく顔の彫りが深くてなかなかのイケメンだったのだが、残念ながら顔だけじゃなく全身ちっちゃかった。私のこびと体格はここからもらったかもしれない。じいちゃんの兄弟はみんな当時の俳優さんみたいにイケメンだったらしい。「〇〇さんも体格さえよけりゃあ映画俳優になれたろうに残念」とよく言われたらしい。
肝っ玉母さんを影で支える優しい父。まるでイルカの群れだと思ったことがある。イルカのオスは生殖が終わると大体は群れの護衛みたいな裏方の役で、オス同士健気に遊んでいたりするらしい。
私は性別になんのこだわりもないが、今の日本社会を眺めていると、一度イルカのシステムに立ち戻って仕切り直してから新たな進化をしていく必要がありそうな気もしてくる。豪快な肝っ玉母さんエネルギーが地球を救うのではないかと。
またいつもの脱線。
主題は母ちゃんごはんでありながら、お料理上手な妻や母のいる家庭のようにオシャレな写真なんかがなくて恐縮だ。テーマ倒れの域だとわかっている。だから私は料理本を眺めるのが好きなのだ。憧れるのだ。素敵な方々はたくさんおられるからそっちを見に行こうと思う。
最後に、やっぱり世界一美味しい母ちゃんごはんといえば。。。
これしかないです。具はうちの梅の木でとれた母ちゃんのお手製梅干しだけ。
米粒が崩れない絶妙の固さにふんわり握った
おにぎり。
これだけは天才的だと思っている。私だけは永久にそう思っているから母ちゃん。