みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

太陽のリズムを思い出してこびとを救う

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現在時刻は午前4時33分。

水分をがぶ飲みした覚えはないのだが、夜間3時半頃に目覚めてトイレに行った。

いつもなら二度寝する。ほぼ寝ながらトイレに行くから起きたという記憶は残らない。

なかったことにして眠りという故郷に帰るのだ。

なぜ二度寝し損ねたのか?

 

タブレットの充電をし忘れたのに気付いてケーブルに繋いだ勢いでデスクに座った。

そんなつもりは全くなかった。相当眠かった。

夜更かししなかったとはいえ就寝は午前0時近かったのだから。

人生の中で時折似たようなことがあった。

想定外の成り行きが積み重なってできたような人生だから、

中継地点みたいなポイントが必ずあったはずだ。

表現の仕方は違ってもみなさんそれぞれお持ちだと思う。

ターニングポイントとか転機とか分岐点とか…なんでもいいのだが、

私にとってのポイントは今朝のような感覚ではじまることが多かった。

もっと心の準備とかできていて胸が躍ったりBGMが聞こえてきそうな感じであって欲しい。

しかし残念ながら私の場合、映画の一コマみたいなビビッとくるポイントはハズレやすい。

自分の内部で無理やり演出しているから不自然な結果を生みやすいのだ。

無意識にやっているから毎回信じて陶酔してしまう。そうやっていろんな不具合も体験した。

自分の本質にとってのハズレがどういうものなのかを学んできたのだろう。

ハズレの感覚とは逆にアタリの感覚というのも当然学んでいる。

多くの方が多くの著書でも語っているように、

冗談みたいな流れのなかに「自分にとって最高の真実」がぷかぷか浮いていたりするのだ。

逆境・失敗・非常識という既存の分類のなかにチャンスの種がある!

ごもっともだと思う。それもありなのだ。変化の引き金になる。

しかし今朝のこの感じとはまた一味違う。

今朝のやつは、なんというか…先にも述べたように冗談みたいに普通すぎるのだ。

え〜?ここでなんでコレ来るの?

生き方に何か変化が起こる時の感覚だった。

マンションを売ると決めた時もそう。即断即決。

思い立ってからわずか3ヶ月で引っ越し含む全ての売却手続きを完了させた。

(偶然にも3年前の昨日6月27日が引き渡し完了日だった!)

自分が最終的に本質から外れた決断をしなかった場合は、

どんなに唐突で無謀な状況であっても、本人には普通すぎる時間が流れる。

それを疑う余地もなく、背後から両脇をそっと抱えられて運ばれていくようにコトが進む。

運ばれた先でも”そっと”置かれるから移動したことにも違和感がなく、

何事もなかったように行動し始めてしまう。

トイレでトイレットペーパーに手を伸ばす行為と同じくらい何も考えていない。

「それって無意識の行動で習慣の元じゃないの?」

「あんた習慣とか嫌うくせに従ってるやん?」

「集団的無意識に操縦されるのは嫌じゃなかったんですか?あれれ〜?」

確かに学校や地域や社会で叩き込まれる類の習慣が私は嫌いだ。

しかし同じ無意識下にも自分の本質が潜んでいる。

か細い声で…いや無言のままかもしれない。

じっと発掘されるのを待っている「こびと」が体育座りをしているのだ。

体育座りの起源はかつて不当な労働につかされた人々に強要していた座り方だという人もいる。

戦後GHQが日本に導入したもので歴史は浅いが根は深い。

まさに尻尾を巻くという感じで仙骨・尾骨辺りが猫背になるような角度になる。

子供の身体にとってよろしくないのではないかと、個人的に以前から思っている。

解剖生理学的な観点で仕事上必要な研究だったが、

自分の姿勢の悪さを見直すために本気で深掘りしていた時期がある。

手当たり次第調べた文献の中には腑に落ちるものもあった。

欧米人の胸を張った反り腰とは真逆で、猫背の多い日本人。

卑屈さを肉体で表現させられているようなものだと感じた。

私が抱えていた日本人独特の自己肯定力の低さや過剰な謙虚さなどの

負のメンタリティーと無関係ではない気がする。

ついでに言えば「前へならえ」「小さく前へならえ」とか、人生になんの役にも立たなかった気がするのだが。

さらに昔は「右向け右」「左向け左」とか「回れ右」とかもやらされた。

「お手」「お座り」と同じノリで一斉に号令に従うおぞましさ。

こじつければキリがないが、軍隊かよ。

そう、軍国教育。私は周囲に子供がいないためよく知らないが、

学校ではまだそんなことやらせているのだろうか?不思議に思わないのだろうか?

通学路のあちこちに立つ高齢者にガッツリ監視されながら

礼儀正しく縦一列に並んで登校する近所の子供達の姿を見ると、

胸が詰まりそうになることがある。きっと私だけだと思うが。。。

自分の「こびと」に体育座りをさせたままではいけない。

声にならないその声を拾ってやれるのは自分だけだ。

話を戻そう。タブレットの充電ケーブルを差し込んだところから始まった。

スズメもカラスもジジジジと鳴くよくわからん鳥もとっくに起きていて、

深夜から早朝になって朝になっている。

規則正しさとは正しさなのだろうか?

同じ時刻に寝て同じ時刻に起き同じ時刻に食べ、

同じ時刻に医者やテレビの健康番組の勧めに従ってウォーキング。

私から見た親という大人世代には結構こういうきちんとした規則正しい方々が多い。

この正しい方々から渡された今のこの国がどうなったか?

病は減るどころか若年化までしていくありさま。

規則正しさとは本当に人類にとって揺るぎない正しさだったのだろうか?

太陽のリズムを思い出す。

ただ単純に夏の朝と冬の朝が同じ時刻ではないことを思い出す。

本能的に自然の摂理がもっとも働きやすい流れに従って生きる。

まだ古い社会システムとの共存がやむを得ないにしても、

可能な限りそうあろうとする自由意志は誰にも奪えない。

ウイルスの出現をきっかけにして、私たちひとりひとりが本気で生き方を見つめ直している。

社会を描きなおそうとする声が生まれている。

まだ全体を動かすほどのパワーに至っていないが、

群れずに異種共存できる社会を臨む少数派は存在している。着実に増えている。

個々が成長しようと決意し、暗い地底に根を張り続ける限り、いやでも芽は出て育つだろう。

太陽がその芽を育てようとするだろう。

こんな梅雨だからこそ、忘れかけていた太陽を思い出す。

諦めずに自分の身体に問いかけてみる。

今の瞬間にあうバランスを調整するポイントを教えてくれるはずだと信じてみる。何度でも。

いつもならやらない行動を普通にやってしまう今朝のような日が、

振り返った時に重大なポイントになっていたりするから面白い。

必死に無理して努力してないから、勘違いだったとしても傷が浅い。

というか気付いてもいない。知らない間にできなかったことが

当たり前にできるようになっている。自動的に。

停滞しているように感じるとき、自分なんてまだまだダメだと凹むとき、

案外「こびと」的には成果を出して喜んでいるかもしれない。

「こびと」に体育座りは似合わない。固定させてはいけない。

ぐるぐるみんみん勝手気ままに泳ぎ回ってこそ、小さいことの特殊性を活かせるのだから。

夏至付近で陽が極まっていた時期だから早く起きただけのこと。

太陽はすでに冬至に向けて日々変化している。

連続性というより、適切な瞬間の断片がドミノのように並んであるイメージ。

ひとつひとつのドミノに最適な瞬間を本能で感じ取って暮らしてみようか。

今朝の私は一人の「こびと」を救出したんじゃないかと思う。たぶん。

特別これといったイベントなどなかった夜明けだったが。。。と思いきや、

おおおおお〜っ!?

爽やかにブログを書き終えて外に出るときっちゃんが卵を産んでいた。

イベントあったあったあった。独りで頑張っていたきっちゃん。

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未受精卵だから実質赤ちゃんは入っていないが、お疲れさまには変わりない。

穴に埋める際に大半割れてしまうが、奇跡的に水中の小屋の方で3個だけ残っていた。

ま、まさか…

体育座りした「こびと」が入ってるんじゃないだろうな…。

つい妄想が膨らむのを抑えて日常に戻る。

殻を破って出てくる「こびと」気長に見守ってやろう。