みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

HSS型HSPな私らしく暮らす

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ここ数日間、朝型執筆生活に転換してみて、

季節や外界の状況に合うひとつのパターンを体験していた。

昨夜は22時過ぎに就寝し、今朝は寝坊して7時前まで爆睡した。

ベッドだけ整えてパソコンを立ち上げるが通信が不安定で進みが悪い。

タブレットまでも反応が鈍い。

居直ってトイレに行った勢いで先に洗濯をする。

何を書くかはパソコンの前に座った時に決まる。

 

文章がなかなか飛び出してこない時はただ身体を揺らしてぼんやりしているのだが、

今日のように順序を変えて手洗いの洗濯をしつつ、

瞑想のような境地の中に入るとネタが出てくることもある。

現在午前8時35分。すでに草刈り機の騒音が閑静な住宅密集地に響き渡っている。

機械の摩擦音というのは本当に苦しい。胸鎖乳突筋が自然に張ってくる。

場所を変えたら、今度は開放された窓からご近所のテレビの爆音。

こればかりは高齢者中心の地域ゆえ仕方がない。

聴覚過敏の自分だって難聴に無縁とは限らない。

(なる前に去るつもりだが・・・)

冷房漬けになる真夏になると窓が締まるから少しマシになる。

昼下がりのサスペンス劇場再放送や時代劇の時間帯はスゴイ。

殺人現場に出くわした第一発見者の雄叫びや、

侍が刀でバッサリ切り捨てゴメンの雄叫びとかが、

臨場感あふれる大音響で町内を包むのだ。ちょっと面白い。

しかしワイドショーの人工的笑い声だけは不自然で耳が受け付けない。

何十年もテレビ離れしていたため、本当に心の底から気持ちが悪くなる。

「ハイ、ここ今笑うとこですから笑ってください」

または「ハイ、ここでは驚いてくださいね」

などどいう誘導がどうしても違和感MAXで好きになれない。

いちいち笑うところまで指示に従ってどうする日本人。

それもちょっと面白いけど。。。

 

やはり夜明け前の静けさは捨てがたい。

しかし、自分は絶対にこれ!というパターンを決めようとは思わない。

全員が機械的に同じシステム同じ行動パターンで動いていれば、

同じパターンに従う方が苦痛もないのだろう。

この国が行き着いた現状を見るとそう思うし、

同じことは多くの方がもう指摘している。でも変わらなかった。

私の気質は確かに少数派でマイノリティだと思う。生きづらい。

常識に沿って生きてきたら、だんだん自分が崩壊して頭が変になった。

更年期という不安定さに、ある意味感謝する。

あのまま常識的な世界で自分に嘘をつき、いい人を演じ続けたら、

もっと悲惨な自分になっていただろう。

HSPという過敏すぎる感性を持ちながら、

HSSという常に刺激を求めるという気質。

どんな環境に突然放り込まれてもすんなり馴染んでしまう人懐っこさもあるのだが、

感知する刺激や情報量が膨大すぎて、

楽しくてワクワクするのにセンサーが過剰アクセスでダウンしてしまう。

あっ…もう無理かも…ってところで毎度ちゃんと引き返してきたから、

半世紀以上経っても、かろうじてまだ生きている。

ちゃぶ台返ししてでも脱兎のように逃げたから助かったケースもあった。

そう考えると…?いや待て…。

ちゃぶ台返し」は常識人ならしないよな…。

我慢強いはずの日本人が引き返してくるとはなんたることか!

大日本帝国において恥ずべき国民の象徴みたいな昭和の空気感に叩かれる。

それを刷り込まれて取り込んだことに気づかない自分が、自分を叩くのだ。

そこで少しいじける。

 

こんな具合に私の頭の中は常に無数の『こびと』がひしめき合って、

各自が言いたいことを言い逃げしつつ身体中を駆け巡っている状態にある。

ピンポンダッシュみたいな感じだろうか?

無数の『こびと』が情け容赦なくピンポンダッシュする。

しかも玄関のインターホンではなく、

「普段そこは絶対に押してはいけません」という緊急ボタン

ニコニコ軽いノリで、

強く長押しして去っていく

マジで勘弁してほしい。

しかし、これが私独自の個性をそのまま表現する人生ならば、

高齢者のテレビ爆音と同じように受け入れてやってもいいかと思う。

昔、担当の美容師さんが私の頭を触りながらよく呟いていたのを思い出す。

「この中身っていったいどんなふうになってるのか一度見てみたい」とか

「定点観測的に日常を24時間中継していたとしたら、絶対見てみたい」とか。

「可愛いアイドルの24時間密着生活映像見てみたい願望」とはかけ離れた、

生物学者の純粋な探究心から自然に湧き出す願望」のようなコメントだった。

この神経がここで切れたら身体はどう反応するのだろう…みたいな。

その美容師さん自身もかなりマニアックな人だっただけに、

自分っていったいなんなんだろうと思った。

 

毎日が試行錯誤。

好奇心を押さえ込まずに、どこまで心身がついていけるか。

身ぐるみの本体が朽ちていく段階に合わせた範囲で冒険を企てる。

肉体が朽ちることは悲劇ではない。

その区切りがあるからこそ、

この地球上で時間軸に合わせて「体験する」ことができるからだ。

「始まりと終わり」をあえてわざと設定しておくことで

生まれた目的を確認できる。

各自が伸ばしたい資質を進化させることができる。

とてもユニークな進化の方法だと思う。

私は心を病む体験をしたけれど、実際は比較的軽症だった。

本質までは根こそぎ病んでいなかったりもする。

仮病というのではない。

仮病扱いを受けて苦しんでいる人も多いが、それは仮病じゃない。

本当に苦しいのは断じて嘘なんかじゃない。

しかしどんなに重度に病む体験をしたとしても、

あなたは決して本質まで病んではいないはずだ。

激しく病んでしまう人ほど本質が純粋で美しいのだから。

この国で新しい時代を担う中心になるのは、

そんな純粋で感性豊かな若者や子供たちだと思う。

ずば抜けた感性を持つからこそ、

高度に発達したICT文明の中で、

生身の人間力を発揮できる

これから来る時代のために必要な能力を備えて生まれた人々だと思う。

ベタベタどろどろの人間模様だけに依存しなくても

人の温かさを維持できる能力を生まれつき持っている人たち。

私は勝手にそう思っている。

私が生きていた中途半端な汚物処理時代は終わる。

その要素を残さずスッキリ去るのが我が理想の最期。

ああ…願いが叶うなら理想の最期は、

『南極のアデリーランドでペンギンハイウエイを爆走し、アデリーペンギンの群れとすれ違いざまに将棋倒しになり、

そこに激しいブリザードが吹き荒れたところを氷ごと鯨に丸呑みされ、

私だけ不味くてペッとされても海の藻屑として終わり、借りた肉体を地球にお返しできる。。。』

そんな理想的な人生の結末を妄想してしまう。

私にはこんなくだらない妄想すら拒絶せず聞いてくれる友人がいる。

そんな器の広い人が世界のあちこちにちゃんといると思う。

敏感で心優しい彼ら彼女らがただ存在するということだけで

人の痛みを感じられなくなった世界が、

ひっくり返る日が必ずくると信じている。