みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

背骨と世間と生きづらさ

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まるで巨大なUFOみたいな雲がかぶさった梅雨の夜明けだった

  背骨について考える

なぜ背骨なのか?

私と骨

思えば小学生時代から今日までずっと、

背骨(脊椎)との闘いだった気がする。 

首と背中の極度なコリと緊張と痛み。

イカの頭のように引っこ抜きたいくらいだった。

これが「背骨を持つ」脊椎動物としての苦悩なのか。 

背骨の中には神経の束があり脳とつながっている。

人間だけが持つ複雑で繊細な神経を、

包み込んでいる背骨。

人の「ややこしさ」を守るヨロイ(鎧)?

クラゲやナメクジにない「めんどうくささ」

いっそクラゲになりたいと何度思ったか。

日本人と肩こり首こり

私を含む多くの日本人が悩んでいる肩こり。

海外の方には肩こりがないという噂をよく聞く。

反論もあり、英語で訳しづらいだけともいう。

英語でいちばん近い表現は

「stiff neck」つまり「首がかたい」という表現らしい。

肩こりというより首こりに近いのだろう。

「首の骨」といえば背骨の一部である頸椎(けいつい)

おそらく世界でトップクラスの「かたい首」が、

日本社会の特殊性を物語っている気がしてならない。

骨と生きづらさ。やはり気になる。

進撃の巨人』と骨

古い小説でも現代的な漫画やアニメにも、

よく神話的なメタファー(隠喩)が使われたりする。

巨人にも伝説があり深く考察している方もいる。

この作品を偶然YouTubeで見つけた時は、

残酷な描写に驚いた反面、納得もした。

作品に描かれたムカデのような脊椎動物を見た時、

自分が骨に関心を持つ理由づけができたからだ。

『背骨と執着』の関係は長い歴史の中で追求され、

謎の多い物語のまま現代社会にひそんでいる。

言葉で断言しきれない古代からのメッセージが、

私の人体への探究心をかき立てた。

進撃の巨人は」考察すると奥深いが、

私はブログ初心者でもあり著作権の観点から、

ここで安易に触れないことにする。

新しい学びのツール

進撃の巨人という漫画が、

若者世代に受け入れられていたのもわかる気がする。

他のアニメやゲームなどもそうだろう。

YouTubeライブ配信で大勢の視聴者が集い、

ストーリー考察をしているのを見て、

私は「おお〜すげ〜面白そう」と驚愕。

新しい時代を感じて心地よかったので、

進撃の巨人をテーマにした動画を見学してみた。

ストーリー設定に決めつけのない部分があるため、

各自が自由に想像してチャットで意見交換している。

学校で同調圧力に押さえつけられ、

みんなと一緒が常識と叩き込まれ、

薄っぺらい平等と調和の世界で、

口をつぐんでうつむくよりも

みんな熱く生き生きしてて

いいじゃないかと思った。

ゲームだろうとアニメだろうと

ツールは教科書に限定しなくても無限にある

ある子にとってはお菓子の本かもしれないし、

ある子には世界のペンギン図鑑かもしれない。

解剖学の本でもいいし、本なんかなくてもいい。

外でしゃがんで土をいじるだけでもいい。

雲の流れをみているだけでもいい。

学びのツールは無限にある。

封印された残酷さと狂気

プラス思考の落とし穴

自己啓発やスピリチュアルブームの定着で、

マイナスの思考や言葉は現実化するから使ってはダメ!

プラス思考で幸せを引き寄せよう!

そんな空気が世間に漂うようになっていた。

プラスに傾きすぎると無意識にスイッチが切り替わり、

善悪のジャッジなしで物事を直視したい時もある。

どんな良い子良い人で無敵で常に愛の人でも

地球上にいる限りプラスだけとは限らない。

深い部分で無視していると自分でわかっている。

他人はごまかせても自分はごまかせない。

それで苦しくなる。

防衛本能

私は偏屈で変態なのだろう。

現実世界で残酷なシーンばかり見てきたために、

汚いものにフタをして休憩させてくれ…という時期も

適当なサイクルで巡ってくる。

そうしないとメンタルが崩壊する。

戦場の兵士がその究極の例だったろう。

見て見ぬふりして、

良いことだけ見て感謝して、

狂わないように自分を癒す

なかったことにする。

私たちが授かった忘却という癒し。

生存本能の応急手当てで救われてきたのだろう。

救急外来で見る光景もそのシステムで処理していた。

何を見ても平然と淡々とこなせる。

怖いとか気持ち悪いとか感知する神経を

完全オフにして正気を保つことができる。

かといって機械的な冷酷さになるのではなく、

ちゃんと微笑みも気配りも欠かさず、

温かな感動で涙ぐむことさえある。

本物の脳を触った帰り道に、

近所のスーパーで豆腐とか普通の買い物ができる。

そんな自分を狂っていると思った。

戦争で飲み込んだままの狂気

最近ある動画で聞いた。

第2次世界大戦後、戦場から帰った兵士が発狂した。

戦場で食料が尽き、飢餓状態で極限まで追い込まれ、

仲間の兵士を食糧にせざるを得なかったと告白した。

しかし狂って騒いだのは自分だけで、

他の仲間はごく普通に家庭を持ち、

普通の日常生活を送っていることに彼は驚愕する。

どちらが怖いかといえば、

まともでいられるほうが狂気だと。

応急処置的な自己防衛としての忘却は必要だが、

目を背けて飲み込んだ狂気から学ばず、

隠し持ったまま世代を超え、

とぼけ続けたツケが世間の空気に今も漂う。

世間とは何か

しきたりという美しい無言の強制

幼い頃からずっと私は、

町の大人たちからモワモワにじみ出る

独特な空気を息苦しいと感じていた。

老人から子供まで群れて陰口悪口、井戸端会議。

町内会、婦人会、子ども会に消防団に、

飲み会に祭り行事。。。

限りなく小さなかたまりをつくり群れる。

「助け合いと平等」をモットーに。

嫁いびり、女性蔑視、長男優位の家庭内格差。

年功序列という年齢格差。

平等意識の背後には「ねたみ」があるという。

平等という言葉はくせもので、

「みんなと同じでいてください」という

無言の圧力を秘めているというのだ。

人はみんな「世界にひとつだけの花」と歌いながら、

むりに抑え込んだ「ねたみ」が出る杭を打たせ続ける

放っておいても自粛警察状態。

庶民同士で監視し叩き合う。

おかげで支配層は楽に統治できるというシステム。

この従順な国民の資質を悪用しないはずがない。

だから日本の陰湿なイジメはなくならない。

しきたりとしての「付き合い」

物は必ずお返しとセット。

これは世界的にみて特殊らしい。

子供へのお年玉合戦は親族間の見栄の張り合い、

地域にもよるだろうが、

もらった額と同等又はそれ以上を返さないと、

一家の主人である父親の顔が立たないみたいな。

子供がボーナスを稼げるありがたいシステムだ。

ひねくれた私には、そんな大人のやりとりが、

金や物で人気をとり票をかせぐ、

政治家の手法と同じにみえた。

子供の頃から金がものをいうシステムを

刷り込まれたと気づくのは難しい。

お中元お歳暮に冠婚葬祭のお祝いとお返し…。

しきたりという美しい暗黙の強制。

誰もが世間の常識を信じた。

伝統や文化だと美化して疑わなかった。

それが日本の闇「世間」の正体かもしれない。

 個人と社会と世間

個人( Individual )の居場所がない日本の「世間」。

社会( Society )と個人が消滅し、

「世間」だけが悪用されているのが日本だと思う。

社会を変えられるのは、

世間に打ち勝つ個人しかいない。

「たかが個人になにができるんだ」

よく聞くセリフだし、

自分もそう思っていた。

どうせ自分ごときがなにやったって

巨大な組織にはかなわないと。

社会は変えられないと思っていた。

本当にそうだろうか? 

以前も紹介したこの本を読んで、

この世間と社会と個人の関係から、

私の考えは変わった。

むしろ個人にしか社会は変えられないのだと。

世間は変えられなくても社会は変わる

目から鱗の発見だった。おすすめの本だと思う。

絶望から希望へ。

次世代の未来が明るくなってきた。

おわりに

このテーマを語り尽くすには、

膨大な時間を要するだろう。

ざっくりした個人的見解の一部にすぎない。

今後もこのテーマを掘り下げながら、

希望につながる具体策を追求したいと思う。

最後までお付き合いいただき、

ありがとうございました。

希望の夜明けをイメージして、

梅雨の合間の夜明けの空を撮影。

夜明け前がいちばん暗い。

しかもグズつくあやふやな天候続き。

それでも明けない夜はない。