みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

「面白い人間関係」と「ひとり時間の聖域」の大切さを考えてみました。

こんにちは。mimikobitoです。

はじめに

今日も昼頃にクサガメのきっちゃんが起きてました。

水の小屋から陸の小屋に向かうトンネルの中で、

遠い目をして固まっていました。

「お嬢さん、こんにちは」

冬眠が中断されたきっちゃんは、

YouTubeの0.25倍速ぐらいで動きます。

落ち着きがなく気が散るビョーキだったわたしも、

峠を越して本来の自分を取り戻しているせいか、

ちゃんと待ってあげることができるようになりました。

「待て」ができなかった理由

ナースの職業柄、せっかちさが必要でもありました。

もうひとつ最近、新たに気付いたことがあります。

わたしが「待て」できないときは、

子供の頃のように瞬間だけに身を置いたときでもあり、

興奮してわけもなくはしゃぎ、大人を急かしてしまう。

そんな感覚に近い気がします。

昔からよく、どうでもいいことを思い付いたり、

何かやらかして自虐ネタができたりすると、

次の日、友人や同僚に会う時まで待ち切れなくて、

悶々…ウズウズすることが多かったです(笑)

しかし、SNSがあったとしても使わないですけどね。

なぜかというと…わたしは、

ひとり時間を人一倍必要とする人間なので、

日常的にプライベート時間をガツガツに、

繋がりっぱなしにして共有するのが苦手なのです。

わがままですね〜。ホント嫌なやつです。

だからこの世の平和のために、

ずっとシングルだったんですけどね(笑)

自分の聖域を守る

自分が自分の聖域を確保したいから、

他人の聖域も脅かしたくない。

交友関係は常にドライな傾向かもしれません。

誰だって好きな人とは少しでも、

長く一緒にいたいと思うのが自然ですよね?

それはわたしも思うんです。人間ですから。

接する瞬間はどっぷり集中して相手だけを見ます。

それは日常のちょっとした、

コメントのやり取りでも同じです。

コメントを送る相手のことだけ考えます。

他の物事も人も完全に遮断して、

対象とする相手だけに全力を注ぎます。

大袈裟ですがその瞬間には、

自分の人生を捧げるぐらい熱量を注ぎます。

そこだけは集中力けっこうあります。

自分なりに全力で瞬間を共有しているつもりでいます。

だからこそ自分のための瞬間も全力で守ります。

遠い過去の遠距離恋愛で役立ったルール

例えば朝起きてすぐのひとときは、

誰にも接触したくない感覚に陥ることがあります。

大昔に関西関東間での遠距離恋愛をしていた頃、

何ヶ月も会えないペースが当然だった。

ちょっとでも一緒に過ごしたいはずなんですが、

たまたま相手も同じタイプだったんですね。

朝イチはインスピレーションが湧くこともあって、

お互いひとりで過ごしたかったんです。

自分との対話をするのには、

眠りから覚めた時が一番適している思います。

面白いことを思いつくのもそんな時だったりします。

こうしてブログを書くようになってからも、

朝起きてすぐ閃いたことを急いでメモしたりします。

夢の中の言葉をそのまま引用して使うこともあるので、

ひとりで集中しないと忘れてしまうのです。

せっかく眠りの中で自分と対話して持ち帰ったアイディア。

そこを互いに侵害しないことが暗黙のルールだった。

無慈悲なほどアッサリ解散していた気がします(笑)

もう遠〜い遠〜い昔のお話でした。。。

面白がることの大切さと人間関係

面白いものを発見したり思い付いたりして、

早くみんなに教えてあげたいモソモソするひとときが、

ビミョーに好きだったりするんです。変態ですね。

全く引っ張らずにさっさと発表してしまうと、

本来あまり過去は振り返らないタイプなので、

あっさり終わってしまう感じがちょっと寂しい(笑)

お利口に「待て」できない部分もまだ残りますが、

完璧に穏やかに天使のような人間になどなったら、

人生面白くもなんともありませんもんね。

生きるのって、面白くてナンボのもんでしょ(笑)

これは最近本当に思うのです。

今日の、りょうさんの記事の中でもポイントだった、

「面白いということ」の大切さ!

yukiichihimenitaro.shop

わたしは自分自身のことを「人工的・後天的」で、

姑息な策略的笑いをとるタイプだと思っていました。

ちょっとでも楽しく伝えたいから言葉も吟味して選ぶ。

そんな性格の悪いやつだと考えていました。

しかし、りょうさんの記事で描かれた、

彼の面白さの「天然」さを知り、ハッとしたのです。

「面白さ」は、人をいいあんばいに緩ませるので、

人間関係において非常に役立つ資質になることがあります。

面白いと言われることは、わたしにとっても褒め言葉。

これまで出会ってきた多くの友人知人たち…。

どこに行ってもみんなに愛を込めてイジられイジリ返しました。

「いじめ」ではありません。

「イジりイジられ」には、愛とユーモアが含まれます。

「変わった子やね」「オモロイわ」

「色気はないけど面白いから許す」

「あんた世界中どこ行ってもたぶん、しれっと馴染んでそう」

「何をどう考えたらそういうこと思い付くわけ?」

「頭の回線どうなってんの?」

「なんでまた、その角度から平気で直球?」

いつも言われたこんなセリフ。

もしかすると、ひょっとすると、まさかわたしは、

案外「天然」なのではなかろうか?

りょうさんがコメント欄でご自身のことを、

「実は意外と天然」とおっしゃったとき、

わたしはヘラヘラと完全に他人事でした。

自分はクールに計算したうえでやっているのだと…、

「天然」の要素など持ち合わせていないかのように…、

鼻をほじりながら余裕かましていた感じでした。

例えば動植物に話しかけるだけなら、あるあるですね。

わたしは茶碗や鍋にも話しかけてしまうのです。

頭上にトンビが輪を描いて飛んでいると、

まったく…わたしのことがそんなに好きなのかと、

勘違いしたまま上を向いて大きく手を振ります。

だからカマキリにも普通に話しかけてしまうのです。

こうした行為を自然にやってしまうと、

たまに意外なところでドン引きされることがあります。

自分ではごく普通の日常動作に過ぎないことが、

変質者寄りであると自分で気づいていないのです。

自覚がないということが本物の証だったりもします。

もう何もかもが麻痺してしまったのでしょうか。。。

わたしが天然かどうかはあえて追及致しません。

そもそも天然かどうかの線引きなど必要ないのです!

(自分で問題提起しておきながら…居直りキレる…あーあ)

今後いかなる激動の社会がやって来ようとも、

フレキシブルに良い意味で拍子抜けするような、

より良い面白さを放出し続けられたら本望です。

おわりに

完璧になんてなりたくもないし、なれっこない。

欠損がない人間は地球上で進化ができません。

カッコ悪い自分というのも、

とても大切なカッコイイ要素だと感じます。

生真面目一本に固執せず、

固定概念のリミッターを外して、

生真面目さは側面として大切にしつつ、

今求められている柔軟さを、

不完全ゆえの多種多様なご愛嬌を、

各自の魅力に変換していけるといいですね。

最後まで読んで頂きありがとうございました。