みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

何気に200記事目だったので日記がてら振り返りました。

こんにちは。mimikobitoです。

仕事納めだったみなさんもおられると思います。

本当に1年間お疲れ様でした。

ご家族と共に素敵な年末年始をお過ごし下さい。

 

ブログを始めて最初の年末年始。

正月も普段通りのわたしなのですが、

はてなブロガーの多くの方々はきっと、

リアルな世界でのお休みを過ごされると思います。

初めてなので空気感がわからないのですが、

ひとりで勝手に呟いている感じの日記感覚で

今日は書いてみようと思います。

これは個人的な頭の整理なので、

自分本位なただの走り書きです。

面白くないですからスルーしてくださいね!

あ…狙ってたわけじゃないのに今気付いた。

これ、ちょうど200記事目でした。

静かにおめでとう〜👏わたしよ🙌

そうか、そういう節目だったのか。

じゃあ、振り返りを含む独り言でもいいかな。

しばらく語尾を日記調に変えさせて頂きます。

 

6月1日に初めての記事を公開した。

今年が終わると7ヶ月続いたことになる。

メンタルをやられた尾を引いていたため、

まともな思考が働かないことはわかっていた。

形式や理論で自分を縛らず放牧状態で様子をみる。

本当に書き続けられるのかもわからないまま、

とにかく自然の流れに任せてみた。

 

  • 書くことをどう感じるか…相変わらず苦にならない。
  • アウトプットへの恐怖心は…最初の段階は克服できた。
  • パソコンへの恐怖心は…恐怖ではなくなったけど苦手は同じ。
  • オンライン上でのコミュニケーションへの恐怖心は…消えた。

 

ぶっちゃけ「死なないため」に書いていた。

燃え尽き症候群というか、

更年期うつの状態だったのだろう。

この地球上に存在し続けるために書くことが必要だった。

書いていると、わたしは生きていられた。最後の砦だった。

会話のない、心が通じ合わない父の見守り介護の状況で、

「発語」としての言葉を失った。子供の頃と同じ状態だ。

唯一の理解者だった母のいない実家で初めて吸う空気は、

どうしても拭えなかった幼少期の息苦しさを追体験させた。

「発語」はブログ上の文章に置き換えられた。

当初のわたしにとって「書くこと」は

「会話の代償行為」だった。

最後にヤケクソで打ち込んだ劇薬みたいに、

カテコラミン*1のような役割を果たしてくれた。

救急外来でいつも使っていた馴染み深いお薬たち。

硫酸アトロピン…ボスミン…メイロン…。

そしてDCショック300ジュールあたりの衝撃で、

身体が一瞬宙に浮くあの感じを乗り越え、

わたしのHR(ハートレート)はかろうじて保たれた。

何度も何度もかけた妄想電気ショックのおかげで。

 

今はどうだろう?

「書くこと」は「呼吸」になった。

「発語」という機能を封印したおかげで、

言葉や文章への愛情はより深まった。

発語で外界にエネルギーが漏れないぶん、

込められる熱量も増幅させることができる。

楽しい家族や友人との団欒の唯一のデメリットは、

この独特なエネルギーの「タメ」みたいなものが

抜けていくということだった。

発語することでスッキリして終わってしまうから。

アウトプットしたい欲が満たされてしまうのだ。

会話という素敵な行為によって。

だからわたしは「団欒」がある意味怖い。

変態だと自分でも思う。

他人が家族団欒しているのを見ると、

心底ほっこり感動しているくせして。

それを自分の生活に取り込むことが、

どうしても違和感でしかないのだ。

明らかに歪んでいるし特殊だと思う。

田舎の親世代の高齢者が境界線を超えて

敷地内に入ってきて玄関ドアをドンドン叩くような

最も神経を逆撫でされる行為にも似ている。

病的に神経質すぎるかもしれない。

しかし本当にやりたいことをやる時間は、

誰にも邪魔されたくないというのが本音だ。

だからわたしは集団の同調圧力で人一倍息が詰まる。

書くことは呼吸だから。

書くことが生きていることだから。

書くことを邪魔されると呼吸停止してしまう。

実家での田舎暮らしは向かないと分かった。

地域という町内という小さなヒエラルキーに、

既に組み込まれた年齢相応一律のあり方を、

自分と認識して生きるのは向かなかった。

良し悪しではなく、ただ向かないだけ。

このどうしようもなく特殊な自分から、

目を背けず誤魔化さず、

どう折り合って新しい世界を創るのか?

それが2022年の大きなテーマになりそうだ。

 

現在のわたしは、一般常識や世俗から脱線したままだ。

しかし、これを異常とみなし自分を叩くことはない。

わたしたちは「生きるため」に生まれてきた。

世俗と断絶していても、今わたしは生きている。

それを卑下する理由がもう思いつかなくなった。

 

たまたまコメント欄で、

わたしがER(救命救急センター)育ちという話をした。

今日の記事に医療の記述が出やすいのは、そのせいだろう。

かつて、わたしはたくさんの命を救おうとした。

救っても救っても奪われる命に絶望した。

ある日突然自覚する。

自分にも命があったということを。

社会に出た20歳の頃から人命救助の最前線にいた。

命は人様だけのものだと感じるぐらい、

自分だけは別物みたいに錯覚して動いていた。

自分の命をどう扱っていいのかわからなくなった。

麻痺した頭で来る日も来る日も人を助け、

来る日も来る日も人を看取った。

自分にも命があると自覚したら、

なんのために生まれたのかを考え始めた。

もちろんわからなかった。

そして思考の沼にハマった。

理不尽で過酷すぎるこの地球という場に、

一度はなんの未練もなくなっていた。

もう一刻も早く何もない宇宙空間へ、

音も光もないひとりの空間に行きたかった。

究極の孤独を味わってみたいという

変態的好奇心も少し含まれていた。

皮肉なことにその好奇心こそが、

わたしを地球に引き止めている。

 

生命への探求は続けていこう。

自分にしか体験できなかった場での貴重な要素は、

ノンフィクションのストーリー仕立てでもいい、

シリーズ化していけるかもしれない。

 

同じシリーズ化した物語でも、

エンターテイメント的なお笑いファンタジーも好きだ。

書いていて自分が一番笑顔になれるし楽しんでいる。

これも枠を作っておこう。

 

写真や活字で伝えられない微妙なものは、

今後新たな方向性として、

動画の活用も考えたい。

わたしは飽きっぽいので長い編集には向かない。

編集という操作自体でパソコンにのめり込めない。

一発芸的なショートならYouTubeでも試せる。

最近みんな狙っているようだけれど、

流行りだからというのではなく、

自分が短距離走タイプだから興味があるだけ。

それもやってみないと短距離向きかどうかわからない。

チャンネルはもう持っている。あとは撮って出すだけ。

そろそろiPhone買う時期になったし、

外出が増えたら、使える映像を撮りたい気もする。

引きこもってるとiPadとパソコンだけで生きられたから、

iPhoneの知識がないため、調べて決めていこう。

(オススメやオススメしない情報あれば教えてください!)

 

上記以外になるのがもう一つある。

自分にとって「小説」という枠に入るもの。

フィクションとしての純文学的な世界。

手を出しては恐れおののき、

遠巻きに眺めてはまた引き込まれそうになる。

いちばん怖くて深くて自信がなくて、

命を削ってまでやむにやまれず書く究極の分野。

短く設定している余生で、

この重みに耐えられるだろうか?

メンタルに相当こたえる分野ゆえつい怖気付く。

そんな屁理屈を言い続けるほど、

わたしにとって「小説」は怖くて美しい。

その恐怖にどう向き合うかも大きな課題だろう。

最近ふつふつと長文が書きたくなっている。

飽きっぽいくせに、たまに変なスイッチが入る。

ダメならブレーカーが落ちるから、

また懲りずにブログとは別の世界の位置づけで、

自分のために再開してみようかと思う。

精神がバランスを保てる範囲内で。

このわたしとしての肉体をまとう個体が、

生存できる地球上の時間はあまり残っていない。

肉体が朽ちても哲学だけは死なないから、

焦って無理に欲張る必要はないけどね。

これに関しては決めつけないでおこうと思う。

 

日記調にして書いているとキリがないですね。

こんな感じでブログをやる前はずっと、

ダラダラ書いて自己完結する日々でした。

懐かしいダラダラ感を再生してみたら、

思いのほか夢中になれて楽しめました。

書くことって本当に、

人生なんですよね。

今日は読み手のことを考えずに書いたものなので、

ここまで読んでくださった方はいないと思いますが、

ついうっかり読んでしまわれた方…(笑)

本当にお疲れ様でした。

ありがとうございます!

では、また!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:アドレナリン・ノルアドレナリンドパミンなどの交感神経に働く強心剤のようなもの