みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

ノンフィクション物語「 Herz ( ヘルツ ) とわたし 」

こんにちは。mimikobitoです。

はじめに

本日は初めての試みとして、

ノンフィクション物語だけで展開してみます。

以前は書き殴りなカオス雑記の中に、

不意に思いついた実話を挿入していました。

2021年、わたしの自律神経失調とうつ傾向の脳みそには、

そういう唐突な方法しか思い付かなかったのです。

相当メンタルを病んでいた頃でしたから。

まだカテゴリーの手直しもできていませんし、

「まとめ」という形での整理もこれからの課題です。

普通の精神状態ならばそのくらいは簡単なことでしょう。

しかし、まだ病み上がりのような不安定さが残る時期。

ここは焦らず、マイペースにゆっくり変化させていきます。

『Herz(ヘルツ)とわたし』

2022年1月5日。世間は正月休み明けで、

初めてのブログを書き始めて8ヶ月目に突入した。

支離滅裂なまま暴走した7ヶ月間だった。

過去は忘れたかった。

特に医療関係のことは記憶から抹殺したかった。

それほどまでに疲弊し、わたしは病んでいた。

更年期障害の一言で片付けられることばかりだった。

ありがたいことに53歳にもなって、

これまで病気らしい病気はしていない。

だからこそ身体がいうことを聞かないことに、

心底戸惑ったし、怖かった。

わたしはいつだって看る側であり、

自分が病む側になるなんて思いもしなかったのだ。

それは厚かましくマトモではない発想だった。

わたしも一応は人間だったのだ。

 

昨年末に3日間ほど、酷く胸が痛んだ。

ちょうど胸骨の上あたりで鎖骨の内側下方部分。

狭心症心筋梗塞の類の内科的疾患ではない。

なぜか根拠もなく大丈夫だと思った。

どちらかというと整形外科的な、

筋肉痛や筋を傷めたような痛みだった。

胸骨がメリメリと剥がされていくような。

他に随伴症状はなかった。

 

年明け、ふと気付くと痛みは消失していた。

心臓の不調に関して思い当たるとすれば

自律神経失調症の動悸と不整脈ぐらいだった。

同居見守り介護中の老いた高度難聴の父親が

遮蔽のない開放空間で趣味の木工をするたび、

機械の爆音が、わたしの心臓のリズムを狂わせた。

面白いように脈が飛び始め、

胸骨の周辺をワシづかみにしたくなるような

息苦しさと圧迫感を伴う。

本能なのだろうか?決まって反射的に

わたしは胸を拳でドンドンと叩く動作をした。

まるで心肺停止の患者の全胸部を一撃するように、

自分の心臓を無意識にマッサージしていた自分が

野生動物のようでちょっと笑える。

期外収縮という「脈が飛ぶ」タイプのやつだろう。

自覚症状と脈を測って解るのはその程度だが、

心電図モニターでどんな波形が出ているかは、

なんとなく頭の中では見えていた。

もう嫌というほど見てきた心電図の波形。

救命救急センターに集中治療室に、

循環器内科病棟勤務…。

慣れ親しんだその波形が今、

人様の心臓からの発信ではなくて、

自分の内部で異常なリズムを刻んでいる。

 

私たち医療関係者は、

心臓のことを「 Heart(ハート) 」と呼ばない。

心臓といえば「 Herz (ヘルツ) 」が普通だった。

昔のドクターはカルテをドイツ語で書いていた。

私たちの時代はもうすでに英語に変わっていたが、

口頭ではまだ多くのドイツ語が使われていた。

ご飯休憩の時は「エッセン行ってきます」と言ったし、

お亡くなりになることを「ステルベン」

略して「ステった」というのが通常だった。

今の現場はどうか知らない。

もう第一線を引退して随分経つのだから。

 

引退後にわたしの人生は一旦崩壊した。

自分で買ったマンションも処分し、

愛する第二の故郷を捨てて実家に引っ越し、

気の合わない一人暮らしの父親の見守り介護暮らし。

そのストレスを紛らわすために、

何を思ったのか唐突にドイツ語の勉強を始め、

テキスト一冊丸写しするぐらい、

脳みそが吹っ飛んでいた時期もあった。

語学アプリでもドイツ語をとっていたが、

所詮は現実逃避のための暴走だったゆえ、

残念ながら実践的に使える学習ではなかった。

そんなカオスな学習だったが、

独和辞典が目の前にあったりすると、

ここにきて役に立つことも多い。

 

「ヘルツ」は、あの「Hz」とも関係している。

50Hzとか60Hzとかいうアレのことだ。

ドイツの物理学者ヘルツさんにちなんだ名前。

わたしは、4〜5年前の一時期、

軽い電磁波過敏症に陥ったことがある。

勤務先だった、とある大学の研究室には

強磁場を起こす特殊な実験装置が置かれており、

特に健康上影響のない構造になっていたものの、

わたしはその機械が隣の部屋で稼働するたびに

記憶が一瞬プツッと途切れるような感覚を覚えた。

施設の不具合というわけではない。

わたしという個体の感受性の問題だった。

学生たちは普通に実験をしているのだから。

気のせいだと自分に言い聞かせて勤務した。

しかしわたしは、本来人間が感じるはずのない

電磁波に繰り返し反応してしまった。

そして自律神経失調症が加速し、

不整脈が頻発するようになったのだ。

強い電磁波を感じると、

頭の芯が焼け焦げるように痛んだ。

痛むというよりストレートに焼かれている感じがした。

身体の中に余分な電気が溜まっていくような気もした。

やがて判断力が鈍り、頭がぼんやりするようになる。

一見すると、のんびりまったりした雰囲気の大学の保健室。

日常のファーストエイドと健康管理業務とはいえ、

判断力が鈍るということはナースとして致命的だった。

ドクター不在の一人待機。

わたしがぼんやりして判断を誤れば人命に関わるのだ。

それが完全に引退を決意した理由だった。

派遣契約とはいえ、割と人気のある良い条件だったし、

職場の人たちもいい人で学生たちもみな可愛かった。

しがみつけば安定した収入は得られたし、

良い評価を頂き、末長く契約を…という話も出ていた。

黙っていれば症状は誰にもわからないことだった。

わたしは躊躇なく即決した。

そこでしがみつくような自分であれば、

ナースではなく人間をやめたほうがいい。

そして潔く契約を断ち切った。

 

電磁波というと思い出すのが、

こうした振り返りたくない類の記憶だった。

2021年には無意識下に封じ込めていた記憶。

それが年末の胸の痛みと共に湧き上がる。

何かを思い出さなくてはならない。

封印していた何か大切なことを、

身体がわたしに教えようとしている気がした。

なんのために今こんな目に遭っていて、

わたしは2022年のブログテーマを

「心臓」に絞ろうとしているのだろう?

それをこれからじわじわと探っていく。

 

心臓フェチだった後輩ナースがいた。

彼女は異様なほどの心臓好きで、

もう趣味の域と言っていいほどだった。

「ヘルツってさぁ〜単純で好きなんだよね〜」

彼女はよくそう言っていた。

あまりに心臓が好きすぎて、

国立循環器センターに行くと言って別れ、

そのまま消息が途絶えたが、

変人のわたしも呆れる変人でいい子だった。

確かにただのポンプ機能でシンプルだよな。

わたしもそう思っていた。

脳神経や内分泌系のカオスに比べれば、

勉強するのに詰め込む知識量も少なかった。

逆に言うとその単純さが曲者なのだが、

そんなことは常識的医療従事者は考えない。

考える暇がないほど過酷だから、

教科書どうりに医療は動くのだ。

「〇〇先生って、絶対血管フェチやと思うねんけど」

「バイパス用のサフェナ(繋ぎのために使う血管のこと)集めてそう」

「自室の片隅にホルマリン漬けとか並んでそ〜」

そう語る後輩ナースの心臓好きも変態の域だった。

その変態すら考えないようなことを、

これからわたしは考えようとしている。

 

たまたま見つけてしまった動画での情報が、

わたしをヘルツの深い闇に引きずり込む。

ブログ開始当初、無我夢中で支離滅裂に

脳脊髄液の循環を研究しているうち、

東洋の伝説「龍」に行き着いたように。

心臓(ヘルツ)はもっと深い。

生命の核だと思っている。

実際にドイツ語では「芯」という意味もある。

人間の胎児は脳の発生よりも心臓の方が先だ。

かつての記事で触れたまま途切れていた

フリーエネルギーのトーラスが、

ここで繋がってくることに気付く。

f:id:mimikobito:20210831161115j:plain
f:id:mimikobito:20211030181755j:plain

これから踏み込む冒険に、

わけもなく胸がワクワクする。

恋愛の胸キュンだってヘルツの仕業だと思う。

心臓を探れば何かが出てくるはずだ。

トーラスの核に突入していく自分にワクワクする。

ヘルツとわたしは2022年に融合できる。

脳脊髄液の気の流れを突きとめたことで、

呼吸の大切さを再確認した2021年。

呼吸とくれば当然セットで循環でしょう。

脳は死んでも心臓移植はできるのだ。

心臓がわたしを呼んでいる。

西洋医学の枠を超えて、

ヘルツとわたしは今年再会する。

「歪んだ家族愛」に自分を縛り苦しめてきた

現在のわたしに最も必要であり、

わたしの人生最大の欠けともいえるハート…

「愛」の循環から目を背けず学ぶことになるだろう。

 

ここでふと思い出す。

村上春樹の小説で…「海辺のカフカ」だったか?

「猫の心臓」を集める悪役が登場したと思う。

アニメ「進撃の巨人」だってそうだ。

「心臓を捧げよ」のフレーズは有名だった。

進撃の巨人は「脊椎」を探った時にもお世話になった。

アニメや小説は侮れない。

作者が意図的か無意識的かはどうでもいい。

大切なのは、自分が出会った何らかの情報から、

インスピレーションを感じるかどうかだと思う。

それが自分の価値観や哲学の源になるのだから。

胸に、心臓に手を当ててみる。

この中にもしかしたら…

いじけてうずくまった小さな人が

入っているかもしれない。

今度こそ…救助できそうな気がする。

おわりに

今回の物語はお試しです。

実話なのでエンタメ的盛り上がりは皆無です。

しかしこの地味な記述なくしては、

わたしの探求は始まらないのです。

読者さんにとっては退屈なシリーズに

なってしまうかもしれません。

あくまで「心臓」というテーマから

波及したひとつの湧き出す言葉であり、

抑えようのない衝動のようなものです。

毎回こんな記事になるわけではないので、

ご安心くださいね。

いきなり不意打ち暴走イラスト攻撃や、

意味不明の妄想劇場なんかが

まさかのタイミングで入ってくるので。

同じパターンが続くとわたし、凹むんですね。

基本、わたしは飽きっぽいのです(笑)

今日もお二方の新しい読者さんに登録して頂き、

感謝しております。ありがとうございます。

新年早々変な試行錯誤をお見せしていきますが、

どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m

さっそく今日は長文ウンザリ、

ブラックホールパターンでしたが、

最後まで読んで頂きありがとうございました。