みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

「わたあめ」のようなフワフワ雪が舞うなかで想った医療のこと。

こんにちは。mimikobitoです。

はじめに

昨日から突風がひどいと思ったら、

「わたあめ」をちぎったような雪が

風に乗って舞う一日でした。

想定外の雪でしたが晴れ間もあり。

洗濯物を合間に干せるぐらいの、

舞台演出みたいに小規模な雪でした。

血圧測定のこと

未来の血圧測定と医療の行方

わたしの現役時代、

病棟での血圧測定は、ほとんど

手動の水銀血圧計と聴診器で測定する方法で、

自動血圧計は家庭用のイメージでした。

どちらが正確か?

測るわたしからすると手動の方が正確。

自分の耳を信じたいんでしょうね。

最近の機械は性能も良いですから、

もちろん正確だと思います。

今や、アップルウォッチで

心電図を読める時代です。

正直近い将来…、

ナースなんかいなくても

正確なバイタルサイン測定が

可能になるでしょうね。

バイタルサインとは脈拍や呼吸数など

生命維持に必要な数値を示すものです。

本気でケアロボットが実用的になれば、

軽症の患者が普通に自宅で生活していても、

正確な値を病院側がモニタリングできる

…なんてことが日常的になるかも?

それとは真逆な選択をする人も

意外に増えるかと思います。

東洋医学統合医療的な見地を生かして、

本能で自分の体の声を聞きながら

本来備わった生命の自然治癒力

最大限に活用するタイプの医療へと。

もちろん二択という発想ではありません。

自分がどんなシステムに乗り

どんな方法を選んでいきたいか、

からしっかり考えておきたいですね。

アナログ測定のメリット

どんなに便利な機械が作られても、

根強く残るアナログ測定法。

今さら…みたいな原始的手動の測定法も、

かつての高齢者施設では喜ばれていました。

これは勝手な想像ですが、

スキンシップの多さ

ポイントではないでしょうか。

測定者の五感を使って、

腕に直接何度も触れたり、

脈の拍動を聴診器で聴いたり、

血圧とセットで手首に触れて脈をとる。

倍数換算ではなく1分間きっちり触れて測る。

機械なら脈も自動で拾いますからね。

「機械は嫌」とハッキリおっしゃる

高齢者の方も意外とおられた気がします。

あ!自分の血圧測定をすると

昨日の記事でしれっと言いましたが…

やめました。

半端ない厚着をしていたため、

腕がすぐに出せなかったという

やる気のないヘナチョコな理由でした。

だって〜雪降ってたのに頑張って

日中は灯油代ケチってましたもん!

風呂の前に服脱ぐ時にちょっと測ればすむのに。

一日心臓動いてたんやから…もうええやん。

あぁ…こうしてまたどうでもよくなり…

再び忘却の彼方へ…野生の血が勝つ。

超高齢化を突破した先の世界

超高齢化の限界を突破した

この国の行く末は壮絶ですから、

ロボット技術は歓迎せざるを得ないですね。

単身者のわたしが70歳を待たずに

人生を終えたいと願うのはそのためです。

みなさんの長寿がいけないというのではありません!

個人的に家庭背景などの事情があり、

常識外のことを想定する必要があるだけですから。

ただ、現状の結果を見れば自ずと

個人的な人生観も変わってきました。

これは単なる個人的な空想ですが、

現行の政治が完全に崩壊して

国が全ての高齢者に太っ腹対応できたとすれば、

わたしも人生観を修正変更するかもしれません。

家族が互いに離れたくない場合は別として、

身寄りがあろうとなかろうと、

全員を収容できる別次元の楽しい

高齢者ワールドで余生を送れるなら、

もう少しだけ生かして頂こうかと…。

民間や個人レベルで、

助け合いしていく手もありますね。

以前、同世代の友人たちと話していました。

既婚未婚子供の有無なんて関係なく、

いざとなったら家族だけに依存せず、

近場の気の合う中高年同士

結束して助け合いたいねって。

当時は正直ちょっと引いてしまいましたが、

だんだん歳を重ねるとそう言っていた

友人の気持ちもわかります。

わたしはベッタリの群れが嫌いですが、

程よい距離感の助け合いネットワークは

悪くないなと最近思うようになりました。

国に期待する前にそこが大切かもしれません。

わたしの年代ではもう既に、

国レベルの変化は間に合わないでしょうから。

 

国家レベルで実現できるなら、

介護ロボットも導入すればいいし、

動ける高齢者同士で残存機能を補い合い、

不足分をスタッフが補うようなイメージで。

ケアに携わる介護・看護スタッフは

オール国家公務員にして給与も保証し、

有り余るほどの人員でゆったりシフトを組み、

趣味や子育ての時間を取れるようにする。

若者世帯が希望する場合は、

子育て経験のある元気な高齢者が無料で

「みんなの孫状態」で子守をしてくれてもいい。

若い両親が、子育て以外の趣味や芸術など

クリエイティブな時間を使えるように。

ただの理想論に過ぎないんですけどね。

わかっていても希望は捨てたくないんです。

定年してからじゃないと趣味もできないような、

古いシステムは崩壊させたほうがいいと思います。

死生観を持つということ

若いうちから充実した時間を組み込んで

生きていられるなら誰もが、

「死」という自己の概念を

ゆとりを持って形成できる気がします。

「死」は人生最後の大舞台。

最期の大仕事です。

わたしも50歳超えてからは、

どう生きるかよりも、

どう終えどう去るかに

最大の焦点を当てています。

20代で大好きな先輩を、

30代で同僚だった親友と実母を、

亡くしてきたからでしょうか。

祖父母を除いても、

かなり長期にダメージを喰らう

大きな死別体験が三回。

仕事でも「死」は日常だったため、

思えば「死」と身近すぎる人生でした。

最近は70歳ぐらいの方でも、

死の受容に数年以上かかる愛する相手との

死別経験が一度もないケースさえ

ゼロではないかもしれません。

(相当に稀なケースだとは思いますけど)

こうした時代背景は幸せなことですが、

「死」を真っ向から「自分ごととして」

見据える機会が遅くやってくるぶん、

ご本人にとって複雑な心境かもしれません。

逆に今、10代〜30代の若者が、

既に辻褄の合わなくなっている

この息苦しい社会の中で追い詰められ、

「生きる」とはなにか?悩み苦しみ、

「死」を意識せざるを得なくなっている気がします。

なんとも…うまく表せない複雑さです。

複雑さも限界に達した今…、

政治も医療も教育も全部仕切り直す時

とうとうやってきたのでしょうか…。

 

我々は「死」をあたかも

敗北であるかのように、

刷り込まれてきた気がします。

わたしが何よりそうでした。

なにがあろうと人命救助。

患者を死なせることは医療にとって

敗北であり失敗だったのです。

そんなの当たり前なんですが。

「死」は不幸であり悪であるという概念。

その常識を軽はずみに否定すると危険です。

デリケートすぎる問題ですね。

死は幸福であり救いであるという逆の発想は、

追い詰められて藁をもすがりたい人にとっては

誤解を招く恐れもあるからです。

わたしも追い詰められた時そう思いました。

そっちに流れないように、

各自が、平和で何も起こらない

平凡な日々の暮らしのなかで、

自分の死生観を積み上げておくことが

大切なのかもしれません。

おわりに

自分の死生観については

過去記事でも時折話題にしました。

くどいぐらい被る部分も

違う部分もあるでしょう。

「わたあめ」みたいなフワフワ雪が、

わたしの思考を非日常に導いたようです。

異次元にはしょっちゅう、

吹っ飛んでますけどね(笑)

人の思考なんて本来支離滅裂です。

そう居直って終わりにしましょう。

最後まで読んで頂きありがとうございました。