みぐるみん

身ぐるみ脱ぎ捨て自由に生きる。おひとり様引退ナースが人生でやり残したことをやるために創った空間です。

集中力をいったん破壊してみる

熱海の土砂災害で4名の方が犠牲になった。

被害の全貌は見えず、心穏やかではいられない。

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

昨夜も熱帯夜だった。

太陽がジリジリ照りつける酷暑の暑さなら、

洗濯物が驚異的なスピードで乾くというメリットがある。

これに耐えたおかげで、あんなものこんなもの…

春に洗い損ねた厚手のものが楽々乾いていく喜びが得られる。

もちろん36℃越えとか勘弁してほしいが、

災害レベルにない間は無理矢理ポジティブにもっていける。

 

こうして四季があるのはありがたいはずなのに、

紫陽花とカタツムリを背景にシトシト降る雨が幻想みたいに感じる。

豪雨続きの梅雨で、そんな風情を楽しむこともなくなった。

四季の変化は程よい適応能力を与えてくれる。

喉元過ぎれば熱さ忘れるというか。

どんなに頑固で変化を嫌う人でも、

日本に定住する限り四季の変化に適応している。

人間が変化せず同じことを固執してやれるのは、こうやって自然界が

やんわりと変化を与えてバランスを保ってくれているからかもしれない。

固定され安定しきったらおしまいだ。

動きが止まると生命は止まる。地球も肉体も。

固定され尽くし更に現状維持にしがみつこうとしている政治家たち。

裸の王様で茶番だとわかっていても、

立場上演じ続けるしかないエリートたち。

それが学校教育の目指す頂点を極めた大人の姿。

それでも子供たちは、今朝も予定通りに集合し縦一列に並んで登校する。

老人たちは予定通りに集合し決まった場所で登校を見守る。

何事もない日常の風景・音。

申し分のない安定した平和な流れ。

そこにどこからか紛れ込む子供の奇声。

テレビの音にかき消されながらも、

泣きじゃくる子供の奇声を心の中で応援する。

何かに抵抗したくなるのは当然じゃないかと。

しかし自分が保護者の立場ならそんな発想は吹き飛ぶだろう。

私は人一倍できた大人なんかじゃないからだ。

 

災害に見舞われるなかで心底明るい気持ちになんてなれず、

出だしから暗くて申し訳ないと思っている。

雨は降ってもいいから、せめて豪雨地域の雨量を

全国に分散させてくださいと地球に土下座したい気分になる。

環境破壊をやりたい放題やってきた人間の勝手な言い分だ。

 

ああ暗い暗い…。

私にしては珍しく狭い視点に集中しすぎている気がしてきた。

自分にとって、ひとつの物事に集中することは課題でもあるが、

度が過ぎると誰よりも厄介になる。

虫眼鏡越しの太陽光線みたいになって焼き尽くすまで止まらない。

ピンポイントに注ぐエネルギーには適さないのだ。

少し明るいことも考えてバランスをとる時期なのだろう。

ダークさを追求深掘りしようと思えばできるが、

行き過ぎは危険だ。あ???

一晩中充電していたはずのタブレットが残量17%の表示になっている。

できていなかったのか?急激に朝から消費なんてしていないし。

とにかく充電を開始する。単にコンセントへの接続が甘かったようだ。

なんでもないことが気分転換のきっかけになる。

特に多動で気が散りやすく思考量の多いタイプの私にとっては、

日常のあちこちにトリガーボタンが設置されているようなものだ。

そのせいで焦点が分散する代わりに頭は別の意味で混乱する。

しかし忘れるのも上手い。自分で言うのもなんだが特技みたいなものであり才能だ。

その瞬間は全力で偽りなく没頭しているのだが、

転換が速すぎて、飽きっぽく信用できないやつだと誤解されやすい。

それを嫌う人からすれば誤解ではない。正論だ。

みんなに好かれるには確実に不利な性質だから、

無理していい人するのはやめた。

今までは不利だったかもしれない特性も、

これからの時代に合うところがあるかもしれない。

職人気質の方々を見ると心底羨ましく尊敬する。

自分はフラフラしてなんてダメなんだろうと凹んでばかりだが、

一極集中しないことのメリットもある。

それは『執着心が薄まる』こと。

楽しい趣味さえも選択肢がひとつだと固執になる。

老いた父を見ていてそれを学んだ。

身体の一部を引きちぎられるほど手放すのが怖くなるのだ。

どうしても当人が処理しなくてはならないことも、

失う恐れから逃げたいがばかりに先延ばしを続ける。

そして見て見ぬふりをすればするほど自分自身が苦しむ。

これだけが生きがいなのだという激しい情熱は、

それをやめると死ぬぐらいの重さになる。

こればかりは他人が手出しできないことだ。

自分で決めて自分で完結しなくてはならない。

丸投げで死んだらいいのでは?

そうはいかないから人は苦しむ。

しかし苦しむと思うのは私の思い込みであり、

本人にとってそれが楽ならなんの問題もない。

 

私はもう棺桶にどっぷり浸かっている段階だが、

残りの人生で新しい世界をプチ体験できるなら、

やはり執着心が希薄な方が流れに乗れる気がする。

時代の変化は激しくなるし、

どう転んでもすぐに定着はしないだろう。

本能のまま気を散らしていると、

あちこちに好奇心をそそるものが転がっている。

こっちダメならこっちやるし、

それもダメならまたなんか見つけるからいいよ。

私はいつもそんな感じでテキトーな風来坊だ。

ノリが軽いと言うのも聞こえが悪いからカッコよく言おう。

野生動物のように森羅万象を受け入れて風のように駆け抜ける。

この瞬間に死なないのならちゃんと生きて、

この瞬間に死ぬことになったらちゃんと死ぬ。

似たようなことを何度も書いているかもしれない。

もし書いているのなら、そこは自分が大切にしていることなんだろう。

今日も支離滅裂に脱線しつつ、

この性質がもっとも活かせる暮らしを模索する。

 

知人のその後の安否や現状が気になって、

今朝書いてあった記事の投稿が後まわしのままになっていた。

先ほどニュース速報で新たに1名の方の死亡が確認された。

記事の冒頭部分の犠牲者数を3から4に訂正しながら悲しくなった。

忙しさに追われていると関係ないと思ってしまうだろうが、

自分にもひとつ、生があり死があることを思い知らされる。

結果的に今日は、書く作業自体に集中できない日になった。

記事の内容が暗いとか明るいとか以前に、ちゃんと気がそれた。

脱線ついでに気を引き締めて、備蓄品の見直しをしておこう。

備えあれば憂いなしは本当だと思う。やるだけやったら腹くくるのみ。

台風シーズンはまだ始まっていない。